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7)悔改 感謝しつつ家路についたが、家に着いた途端、原因不明の熱を出し倒れてしまった。 家内に助けられながら、はうようにしてベッドにへたりこんでしまった。頭が痛くて悪寒がする。氷まくらを用意してもらい、さらに体温計を見ると39度5分も熱がある。 「ママ! 薬ちょうだい。少し休んでだめなら病院に連れて行って」 人のためなら信仰ありげに「イエス様にお祈りしましょう。イエス様は何でも出来る紳様なんですから」と、何のためらいもなく言い出す<せに、いざ自分のことになるとこの始末。 「さあ、香織ちゃん、実穂ちゃん、・直樹ちゃん、来なさい。パパの悔い改めのためのお祈りですよ」 家内に促されて子供たちが集まってきた。 「僕の悔い改めのため…とは何ごとだよ」 「いつもそうだけど、あなたはこの度も中村さんがいやしを受けられてから有頂天になり過ぎですよ。子供より質が悪い。この分では必ず神様に近々打たれると思っていました」 1 |
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「人をパカにして、こんなに熱があって苦しんでいる時に。老人の杖を取り上げて背後から押すとはこのことだよ」 「私はご老人の杖など取ったりはしませんよ。あなたの傲慢の杖は別ですけれど」 「うるさい!」 「あなた、神様の栄光を横取りしてはいませんか」 「そんなことがあるもんか。みんな神様のみわざであることぐらい分かっている」 「だったらどうして病気になって寝込むようになるのでしょう」 「そりゃあ、このところ休む間もないほど、走り回っていたんだから疲れが出たに違いないさ」 「私はそう思いません」 「いつだってお前は僕の気持ちなんか分かってくれたことが無いんだから」 「あなたの気持ちなんか分かったところで何の投に立ちますか。そんなことより神様のみこころを知って、いやしを受けるために素直に悔い改めの祈りをしたらどうですか」 そんなやりとりを聞いていた長女の香織のお祈りが始まった。 「イエスさま、パパがまた悪いことをして天の神さまに罪をおかしました。それで病気になりました。でも、許してください。パパがイエスさまにごめんなさいが言えるように助けて<ださい」 2 |
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「さあ、美穂も直樹もママと一緒にお祈りするんですよ。パパがイエス様にごめんなさいと言えるようにみんなが先にお祈りしましょう」 子供たちはみんな家内の味方になってしまう。それどころか、イエス様までが家内の味方であるのかもしれない。 「よく聞きなさい。心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」(マタイによる福音書第18・3−4) 急にこんなみ言葉が心に飛び込んで来る。子供たちの祈る姿を見つめていると、自分だけが取り残されたような思いがしてならない。それで中村さんのご家族との一件を熱の苦しみの中で深<掘り下げて考え、内省を始めた。お母さんが神癒の恵みを受けられ、立って歩けるようになった電話を受けた時、今日また即座に高熱が引いた時、心の底から職謝があふれ出た。「高澤さんがお祈りしてくれたから。あなたはお若いのに素晴らしい」等と言われた時にもすぐ否定した。しかし、よくよく内側を探って見ると家内の言う通りだった。茅ヶ崎からの帰路、電車の中で、すべての栄光は御主のものであるはずなのに、自分でもそのように告白していながら、「僕もこれでマンザラではない」といった自己満足と偽善、傲慢な思いを持っていたことを示された。そればかりではなく、「あの時も、この夢も」と、様々な罪が明らかにされた。金の延べ棒や銀、外とうを天幕の中に隠したアカンのごとき自分を何とかして十字架の皿潮で清めてもらわなければならないと思い、背中を丸めるようにして悔い改めの祈りを始めた。今までの様々なことを思いめぐらしているうつちに、自分の心の中が罪と汚れでむせかえるほどの状態であることに驚いた。 「イエス様、私はあなた様をまた十字架に付けるほどの悪い言動をもって高熱に打たれました」 あれもごめんなさい、これもこめんなさい、と悔い改めをしながら眠ってしまった。 それからしばらくして目覚めた時には、すっかり熱も引き、いやされていたのである。 「あなたって本当に神さまに愛されている人ね。 3 |
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傲慢になって打たれてもこれくらいの祈りで許されてしまうんですから。もしわたしが神さまだったら、あなたみたいな人はもっともっと苦しめてやってからにするわ」 これを機会に、しばらくしていなかった断食祈祷をすることにして翌朝から聖書と番茶の入った水筒だけを持って高尾山へ登った。 登山コースからかなり離れた人気のない林の中に、座れるほどの平地を見つけ、三時間ばかり聖書を読んで黙想し、それから晩の七時半ぐらいまで祈るのである。三日目も同じ場所で同じようにして祈りに入って行った。昨日までとは違って心の底から悔い改めの祈りが出来て自分でも気持ちがいい。 遠くでJRの列車や、京王線の電車が走る音が風に乗って小さく聞こえてくる。小鳥たちが近くの木の枝で美しい声で神に歌っている。時折り頭上から何かが落ちて来て落葉を鳴らして崖に転がって行く。昨日もそうだったし、毎回祈りに来る度に遭遇する情景である。枯れた古枝が風に吹かれて落ちるのだろうと思っていたが、実際はそうでなかった。ヘビが高い木の技にとまっている野鳥に飛びつき、くわえたまま枯れ葉の上に「バサッ〃‥」と落ちてサラサラと下へ逃げてゆく姿であった。後で知ったことだが、小鳥たちの産卵期になると、巣の中の卵を食べておなかが膨れ、思うように行動がとれず誤まって落ちるところも何回か見たことがある。いずれも体長が1メートル以上もあるヘビのようだ。 4 |
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それにしても、薄きみ悪い。その狡猾性は旧約聖書の時代から二十世紀の今日に至るまで少しも変わっていない。ところが考えて見れば、立って歩くのとはうことの違いぐらいで、私も相当の狡猾な人間であることを悟らされ、もう一度み前に心を注いで祈ることにした。 「神様! 愛の乏しいこの者に、神を愛し人を愛する愛を与えて<ださい。知恵と知識の足りないこの者に、知恵と知識を与えて<ださい。おお神様〃‥力の弱いこの者に力を与えてください」 列王紀上の3章では、ソロモンが自分のために長命も富も敵の命をも求めず、ただ神の民を正しく導き治めることが出来るための聞きわける心と、善悪をわきまえることを得させて下さいと祈 ったとき、神様は、賢い英明な心と、富と誉れとすべての祝福を与えられた。私もあのときのソロモンの気持ちにあやかるつもりで祈った。 夕方五時半を過ぎたころ、かつて味わったことが無いほどの平安に包まれたのである。久々に長時間泣きながら謙そんになって祈ることが出末たからだろうと思っている矢先、耳もとで「違う!」とだれかの声がする。辺りをうかがうが、だれもいない。「違う!」また聞こえる。しばらくすると、もう一度「違う!」と呼びかけるように聞こえてくる。次の瞬間、頭から腰にかけて電気ショックを受けたような強い力を感じると同時に「偽り者」 5 |
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との思いが心いっぱいに広がってしまい、身動きが出来ず、声も出ない。 「自分は本当に偽り者だ」じつと考えていると、ドツと悲しみが込み上げてくる。謙そんな祈りが出来て平安になったなどと、うつつをぬかしていたが、自己満足の祈りであって天に届かぬ祈りである。愛が乏しいと祈ったが、乏しいとは自分の中に愛が全くゼロではなく、いくらかでも愛があることを意味する。知恵や知識ぜ不足していると祈ったが、これとても自分の内にい<らかの知恵と知識があって、それをもっと増してほしいということになる。力が弱いと祈ったが、弱いと思っている以上やはり自分の内になにがしかの力を持っていることになるのだ。 しかし、現実はそうではない。夜空に美しく輝<月が自ら発光することはなく、ただ太陽から光を受けてそれを反射して輝いているように、私自身、自分では何ひとつ持っていないのである。ただ神様が与えて下さるものをその分だけ持てるにしか過ぎない。 祈る言葉を失って憐憫(れんぴん)の情に陥っていると「愛の全く無いことが分かったか。恐れるな。愛の必要なときに必要なだけ与えよう。知恵や知識の全く無いことが分かったか。恐れるな。知恵や知識の必要なときに必要なだけ与えよう。力の全く無いことが分かったか。恐れるな。必要なときに必要なだけ力を与えよう。わが子よ、わたしはあなたと共にいる」 細き主のみ声を聞いたのである。 `愛は多くの罪をおおうものである″とペテロの第一の手紙に記されているが、イエス様の愛の中に罪と汚れに満ちた自分がすっぼり覆い包まれた感じである。熱い涙があとからあとから頬にこぼれ、祈ろうとしても言葉につまって祈れない。迷子が母親の胸にしがみついて泣きじゃくる時のようである。九十九匹を野原に残しておいてまで、いなくなった一匹の羊を見つけ出すまで探してやまないキリストの愛”追いかけてくる愛”をこの時しみじみ味わった。 6 |
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気づかずにいたが、天使たちが一日の終わりを告げて大空のカーテンを引いたのか、山の上も、もうすっかり暗<なってしまった。 腕時計を見ても時間が分からない。登山コースの道もどこにあるのか分からず、仕方なく下界の街明かりを頼りに小枝やつるにつかまりながら苦労して山すその道に出ることが出来た。 家に着くと九時近い。刺のある木やつるにひっかかって衣服は裂け、顔や手に多くの傷を負ってしまった。 この日の出来ごとは終生忘れ得ぬものとなり、この日イエス様が語られた約束は、生涯の信仰生活におけるエベネゼル(助けの石)になった。 7 |
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