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統一協会問題特別集会   京都聖徒教会にて 3月10日午後6時半〜

(集会の案内パンフレットからから)
 彼女はイギリス統一協会創立者の娘です。統一協会以外の世界を全く知らないで育った彼女は、 どのようにして自我を確立していったのでしょうか。 彼女の苦闘は今も続いているのですが、彼女の苦心や工夫から多くのヒントが得られるでしょう。 彼女は文鮮明とその妻韓鶴子、その子供達と生活をともにしていたこともあります。 文鮮明の云う「理想家庭」の実情も語ってくださるでしょう。

ドナ・コリンズ氏の証言  (集会で配布された資料から)

 毎年、何千という若い人々が宗教カルトに引き込まれていく。私はその中で生れ、育てられた。
常に求めていた本当の家族や家庭を手に入れるには、何年もの葛藤があった。

 私が4歳の時だった。両親とともに「お父さま」と呼ぶ人の前でひざまずいている。
文鮮明・統一協会の創始者だ。おでこを床につけ、あふれる感謝、畏怖の念と 恐れが入れ混じった気持ちとともにおそるおそる顔をあげる。 この目の前の人が、抱きすくめた直後に一転して怒鳴るかもしれないと、知っている。 もし怒鳴られた場合、両親は私を救うことができないことも知っている。 彼は神なのだ。娘に何が起こっても、神に対して反抗することはできない。

 デニス(父)とドリス(母)・オルムは、西欧諸国における最初の文鮮明の信者であり、 組織の高等幹部であった。私は3歳から両親より引き離され、他の統一教会の子ども達と同じく、 いくつかのコミュニティハウスで育てられることとなった。 母の最初の結婚の連れ子だった私の異父姉妹も同じような境遇におかれた。 それから12年間、幼少時代はイギリス滞在が多かったものの、世界中で生活することとなった。 当時、私には最低でも50名のお世話係がいて、その役割はキリストの再来だと 信じられていた男の言葉をそのまま伝えられるよう、私を教育していたのだ。

 私は自分が特別だと信じ込んでいた。 西欧で初めて文鮮明より祝福されたカップルの子供として、 そして原罪のない子供として、「祝福された子ども」と呼ばれていた。 文鮮明は、私を自分の子どもの嫁として迎える日が来るかもしれない、とまで人々に話していた。 幼少時代、両親から離れて暮らしていた為に寂しい思いはしていたものの、 私はたくさんの愛に溢れたお世話係りに囲まれて育てられた。 彼らは憎しみと差別が渦巻く今の世界を、人々すべてが平等に暮らしていける場所にかえていくことができると、 強く信じていた人々だった。

 しかし、私は文鮮明の教えにはもうひとつの側面があることを、早くも知ることとなった。 現代社会の堕落についての7時間におよぶ講義や、 世界中のキリスト教を彼のリーダーシップのもとにまとめる論説を、5歳にして既に聞かされていた。 新郎新婦がお互いに棒で叩きあって悪を追い払うという、 恐怖を感じざるを得ない婚前前の儀式も目撃した。 信者たちの生活はすべて彼によってコントロールされており、 彼をほんとうの親として敬うように教え込まれていた。

 私は自分の10歳の誕生日を忘れることはないだろう。 当時イギリスで両親の近くで生活をしていたが、 その日は母がお祝いをするために尋ねに来てくれることになっていた。 私は母が到着するのを待ちきれない気持ちで待っていた。 その日の夜に母は顔を出すことは無く、 次の朝、アメリカで働くために既に渡米していたことが知らされた。 その後1年間は彼女に会うことは無かった。

 そのころの私は文鮮明にどんどん傾倒していった。 部屋の壁は彼の写真で溢れ、日記は彼への忠誠と愛の言葉に溢れていた。 私が11歳の時、彼は私がイギリスを離れなければならないと決めた。 私は韓国に行き、言葉と文化を習うように言われたのだ。 大変な名誉であり、同時に私の花嫁修業でもあった。 イギリスでは時々ではあったが、まだ両親に会うことできた。 韓国では何千マイルと離れた上に、違うお世話係の間を行ったり来たりしていた。 私は自分が見捨てられ、愛されていないと強く感じるようになった。 私は背が高く、ブロンドで言葉が話せなかったので、 黒髪で茶色の目の東洋人たちの中で、自分の居場所もなかった。

 もともと、韓国の学校の先生たちは、言うことを聞かないと、 すぐに体罰を与えていたので、ものすごく怖かった。 イギリスでは両親のもつ権限のために、よい待遇を受けていたので、その落差に衝撃を覚えていた。 6ヶ月して、怖いもの知らずの怒りを抱えた子どもになっていた。 問題児としての評判が、あっという間に広まった。

 韓国に来て1年ほどたって、状況が変わることとなった。 盲腸が痛くなってきた際、信者たちは私を医者に連れて行くことを拒み、漢方医に連れて行ったのだ。 診断の結果、私が注目を集めるために嘘をついていること、そしてお祈りが足りないと伝えられた。 あまりの痛みに周りが同情してくれるようになった時には、もう少しで命を落とすところであった。

 私の病気を伝え聞いて、母がようやく韓国に来てくれた。 母は統一協会での考え方の訓練が深く入っていたにも関わらず、 私の状態と受けていた扱いを目の当たりにして、衝撃を受けていた。 韓国の統一協会は彼女が今まで認識していたものとまったく違ったため、 父母が当時すんでいたドイツにさっさと連れて帰ってくれた。 生まれて初めて両親と共に生活することができた私は、まるで天国にいるようだった。
ところが数ヵ月後には文鮮明がしることとなり、私を韓国に連れ戻すように命じたのだ。 質問することなく、従うように教育されている両親は即座に同意し、私は大変憤慨した。 根拠はなかったが、父だけはなんとか自分を助けてくれるのではないかと信じていたため、 父に対しての怒りは半端ではなかった。 空港に連れて行かれた日はヒステリックに泣き叫び、一緒にいたいと懇願したのだった。 このとき生まれて初めて、両親と自分に対しての文鮮明を中心としたこの生活が嫌だと認めたのだった。

 韓国に戻ってしばらくして国を訪れていた文鮮明と機会があり、 両親のもとに帰らして欲しいとお願いした。 1時間の間、怒り叫ぶ彼を前に私は萎縮してしまっていた。 彼が他の信者を叩くのは目撃したことはあったが、幸いにも私は叩かれることはなかった。
しかし私は自分の家族を裏切り、彼を裏切っていること、私は彼の子どもであり、 両親の子どもではないので、彼に従わなければならないこと。 西欧の女性のように、私も頑固でいばっているので、 服従することを覚えなくてはならないことを延々と続けた。 13歳にして、私は韓国に残る以外に道は無いことを悟ったのであった。

 私の再教育はワシントンの Mount Vernon College に入学したあとも続いた。 統一協会が運営するカレッジは当時ひとつしか存在しなかったため、 学費は学生ローンを組んだり両親が支払いを行って公立カレッジに通う学生が大多数だった。 私もそこで自由の空気を吸うことができたために、力がみなぎり反抗するエネルギーが沸いてきたのである。 しかし、いざ両親に向けての疑問を書き出した手紙を送ろうと勇気をふりしぼると、 信仰への気持ちが湧き上がってくるのだった。

 自分の中では、統一協会をいつかは離れるだろうという思いが強くなってきた。 しかし去った後、自分が愛してきた人々に見放されるだろうとも感じていた。 両親を恥にさらし、永久に破滅の道を選ぶことになるのだと友人に忠告された。 統一協会を離れることを想像することはできなかったが、このまま留まることもできないことを知っていた。 私は押しつぶされ、壊れ、激しく落ち込んだ。

 Mount Vernon での2年目に、自殺を試みた。両親が私にもっと教えに忠実に生きなさい、 なんだったら信者と結婚しなさいと説得しはじめたため、ひどい喧嘩となったのだ。 学生寮に戻った私は睡眠薬一ビン分、飲み込んだ。 幸運なことに友人に見つかり、病院に運ばれた。 この出来事は私自身にとっても両親にとっても衝撃的だった。 しばらく両親は説得をやめ、私も静かにしていた。

 学校の3年目、通い続ける学費が足りなくなったので、退学してアリゾナに引っ越した。 両親は信者の多くが貧困の中で生活しているにも関わらず、 文鮮明が高額な買い物を続けている理由を質問したために、彼の寵愛を失ったのだ。 両親も文鮮明の偽善に気づき始めていたが、長年の服従体質はそう簡単には無くならず、 統一協会の問題は創始者の問題ではなく、彼の下の者たちのせいだと頑なだった。
彼らの混乱は私の混乱につながり、21歳にして私はますます落ち込んでいった。 そして、文鮮明が、私は信者と結婚すべきだと宣言したとき、完全にまいってしまった。 数週間に及んでベッドから抜けることができなかった。 両親はそんな私が永久に追放されることを恐れて、他の信者の目から隠してくれた。

 私はイギリスに戻して欲しいと両親に懇願した。 私にとって唯一故郷と呼べる土地で過去を振り返ることによって、 将来どうしたいのかを決められると信じていた。 「お父さま」への信仰を再発見して結婚を受け入れるか、 永久に戻ることなく協会を跡にするかの選択だった。

 選択をするのに時間はかからなかった。 イギリスに到着すると信者に迎えられて車に乗ったら、 信仰心が足りないと何時間も車の中で暴力を振るわれ、 子どものころお世話になったお世話係のところで下ろされた。 私はそこでヒステリックに泣き叫び、もう限界だと思った。 自分をこのようにひどく扱う人たちは、自分を愛してなどいない人たちなのだ。

 元信者たちの助けを借り、ロンドンにアパートを借りて、 低賃金の仕事をこなしながら生活を始めた。 統一協会とは関係ない友人ができても、 そしてジョナサン・コリンズという若い大学生に出会った時も、自分の過去を隠していた。 彼は普通の家庭で育った中産階級のイギリス家族の出だった。 集団自殺をしたブランチ・デビディアンをテレビニュースが取り上げていた際に、 彼が発した「狂っている」というコメントが、そのまま自分の幼少時代を知ったときに、 自分に向けられるのではないかと怖かったのだ。

 しかしジョナサンと親密になるにつれて、真実はいつか出てこなければならないと知っていた。 私は統一協会を去ったが、彼らが私から出て行っていなかった。 彼らの教えは信者に恐怖を植え付け、一人一人にサタンを見なさいと教え込む。 私は誰かを心から信頼することができずにいた。 そして信仰を捨てたことによって、自分自身か自分が愛する人に とんでもないことがおきるのではないかと、夜は一人で怯えていた。 マインドコントロールされているのだ、ナンセンスなのだと思い直しても、 そう信じ込まされている嘘は、簡単には去ってくれなかった。

 ようやくジョナサンに自分の過去を告白することができた。 彼は予想していた以上の受け止め方をしてくれた。 そして私は幸せだと人が口にするとき、それが実際にどのようなものなのか、 生まれて初めて知ったのだった。

 アメリカに住むことを決め、94年にフェニックスに落ち着いた。 出会って2年後に私たちは結婚した。 ジョナサンは私をより理解しようとカルトの勉強を始め、さまざまな会議に出席するようになった。 また既に脱会していた私の両親や姉妹との絆を修復すべく、私たちは努力し始めていた。 私が脱会を決断したことによって、両親は自分たちが持っていた疑念が深まったのだった。 さまざまな問題を投げかけていくうちに、 文鮮明をこれ以上サポートできない悲痛な現実と向き合うことになったのだ。 30年間、献身的に仕えた代償は、貯蓄がなく、住居がなく、仕事もない現実だった。

 詐欺師である一人の男に何年もの時間を費やしてきたことに対し、 やり場のない怒りを処理すのはのは、時にとても難しいことである。  そして家族の絆を修復する作業は、とてもいたみを伴うもでもあった。 たくさんのものを許し、忘れることが必要だった。 しかし素晴らしい協力者がいたのだ。3才になるマリアンナだ。もうじき、もう一人の子が誕生する。 統一協会がずっと否定し続けてきた家庭というものを、経験する機会に恵まれたのだ。 私の子どもたちは、お母さんが「神様のお仕事をしにいくのよ」という言葉を耳にすることは一生涯ないだろう。 ジョナサンと私は、子どもたちをあらゆる宗教に触れさせながら育て、 時が来たら自らが自分の信仰を選んで欲しいと思っている。

 私はもうすぐ30歳になる。神様が圧力をかけているのでも、エゴイスティックなのでもなく、 それは文鮮明自身だったのだと思い出すことによって、自分の信仰を捨てることなくここまできた。 統一協会のニュースレターで 「あなたは神様にいるのと、文鮮明側にいるのと、どちらが大切だと思いますか」 という問いかけがあったことを思い出す。 当時はどう答えていいのか分からなかったが、「今は神様にいる」と答えられる。




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